ポルノ断ちは過程でしかない
わかったことがある。
それは、ポルノ断ち自体は難しくないということ。
それよりも、ポルノ断ちを真に決断し続けることが、ある意味では非常に困難なのである。
だから、できる人が少ない。
わたしだって、そうだ。
13 歳からポルノを見ていて、26 歳まで、どうしてもやめられなかった。
本当に、膨大な時間とエネルギーを浪費して、灰色の時代を見送った。
だからこそ、ポルノ依存症の人の立場にたって正しく分析することができる。
私がやめられたのは、私が歳を経るごとに危機感が増大していき、それがピークに達したからかもしれない。
意思の強さというよりかは、心の奥底から鳴り響く警報が無視できないほどに大きくなったからかもしれない。
いずれにせよ、私は引き寄せられるようにアドラー心理学の本に出会い、自分がなぜ、ポルノ依存症であるのかを、真の意味で理解し、納得した。
だから、やめられた。
やめる決断をし続けることができた。
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ポルノ依存症はアドラー心理学の目的論で説明できる。
日本は豊かなので、ほとんどの人にはプライバシーという堅牢な個人の空間が得られる。そして、その閉鎖空間では、インターネットによって誰にもバレずに、無料で無制限にポルノにアクセスできるし、人目を憚ることも簡単にできてしまう。その一方、ポルノ依存は脳の報酬系を改変して、深刻な悪影響をもたらす。
さらに、ポルノ依存症は誰にも相談できない。なによりも恥ずかしいから..。
よって、ポルノに依存するということは、ある意味では人生において非常に便利な選択肢である。なぜなら、誰にも邪魔されずに 、それを自分がダメな言い訳にできるから。言わば、人生の課題から目を背けるという目的を達成するための、最終兵器としての「無敵の言い訳」だ。これはもはや、チートツールである。
だから、やめられない。
本当は、ポルノをやめられないのでは、決してない。
人生の課題に挑戦するのが怖いのである。仕事で失敗することや、人と関係をもって傷つくことや、家族に裏切られるのが怖くて、辛い。だから、ポルノ依存症であることを言い訳にする。
「ポルノに依存しているから、女性と目を合わせられない」
「ポルノがあるから、今はとりあえず現実の女性は要らない」
「最近はポルノを見過ぎて、なんだか調子が悪い気がする」
これらは、ポルノ依存症における悪影響を、今の自分がダメな言い訳に利用している様子だ。
つまり、ポルノ依存症の人は、ダメな自分であり続けたい。それが真の目的である。
それは、変化が何よりも恐ろしいから。新しい自分に変わるのが、その過程で失敗するのが、怖くて仕方がない。ポルノに依存すれば、好きなときに現実を忘れて刹那の快楽に身を委ねることができる。さらには、反復するだけ脳の報酬系を悪化させて、女性と自然に関わることができないもっとダメな自分に堕ちていくことすらできる。
手っ取り早く快楽が得られて、自分をダメにできて、恥ずかしくて誰にも相談できない。
これほど、人生の課題から目を背けることに便利な口実は他にあるだろうか。いや、ない。
・・・
ポルノ断ちに失敗する人は、劣等コンプレックスと優越コンプレックスに陥っている。
劣等コ ンプレックスとは、自分の欠点を挙げ連ねて、それを自分が劣っていることの言い訳にして諦めて、進歩しようとしない状況を指す。
- 顔の造形が悪い
- 背が低い
- 太っている
- コミュニケーション能力が低い
- 愛情が足りていない
- ポルノ依存症である
このような欠点をいくつも挙げて、自分が挑戦しない理由にする。
さらにそこから進展すると、優越コンプレックスになる。まずは同じように欠点を挙げてから、「その欠点さえなければ私は本当は凄い人なんだ」と良い気分に浸って、挑戦しない理由にする。
「ポルノ依存症でさえなければ、私は凄いんだ。私が凄いことは、私が既に知っている。だから、ポルノを辞める必要はない。だって、本当の私は凄いから。それを敢えて他人に証明する必要はない。本当の私をわかってくれる人はいずれ現れる。私はそれをただ待つだけでいい。」
何もできない人間が挑戦から逃げて、万能感に浸って自分を慰めている状況は、客観的に見れば滑稽である。
だが、誰でもそのような倒錯に陥りがちだ。
では、どうすればいいか。
「この欠点さえなければ私は凄い。だから、私はこれを克服して自分を変える。」
このように考えて、勇気をもって、人生の課題に挑戦することだ。
ポルノ断ちは、あくまで過程でしかない。
参考書籍